デジタルG編集長日記
2002−7
編集長日記じゃなくて連れの闘病日記になってますね。
7月某日
寝たのは4時過ぎ。今朝は9時半に起きて、ペインクリニックのある常盤台のN大病院へタクシーで行く。タクシーから途中見えたN大病院は大きかったが、雨に濡れたのか、灰色でくすんだ汚い建物という印象。10時頃には受付で紹介状を出し、診察券を発行してもらった。そのまま2階にある麻酔科のペインクリニックの受付に提出して、長椅子で待つ。しかし年寄りなどけっこうな人が待っている様子で、その間も連れは右腹部を抑えて苦しそうにしている。40分近く待った後で連れが横になりたいというので、看護婦に「ひどく痛がっているのでどこか横になれるところはありませんか」と言うと、診察室の中に入れてくれたので、一番奥のベッドに横にさせる。
医師会病院から預かってきたCTとMRIのフィルムを看護婦に「これを預かって来たんですが」と見せると、中で渡してくれというので中に入ると白土先生という女医さんと鉢合わせになり、紹介状にあるカルテと説明を見たが、どういう痛みなのか、もし手術による内部の痛みならここではなんともしようがないけど、と言われる。しかし内科的な検査では異常は見つからず、神経を切られた際の痛みじゃないかと思うと説明すると、解りました、じゃあお待ちくださいと言われたので、再び外のソファに出て待つ。郵便を出す用事があったので済ませて戻ってきて、あまりに長いので中に入ると連れはまだ放置されており、「いろんな診断を聞いといてもらいたいから中にいて」というので、ベッド脇の丸椅子に座る。連れは横になったので幾分は楽だというが、依然として辛そうに目を閉じて横たわっている。俺はその横でひたすら診察の順番が来るのを待っていたが、10分20分30分…と経ってようやく先生が来た。痛い部分などを連れに問診し、手術の際に肋間神経を切るのはよくあることで、傷に沿って広い範囲で表面が傷むのはそれじゃないかという。また内部の鈍い痛みは、手術の際の血腫かも知れないとのこと。こちらが医師会病院の國分先生に処方してもらった薬を見せると、「ふんふん」と見て、「これはこの量じゃダメだわね」などと言い、新たに薬を処方してくれることになった。血行を良くするためのレーザー光線を3分ずつ数回連れの背中にあて、処方箋を貰って出る。10時に受付をして、終わると12時半だった。
一旦家に帰って、俺は処方された薬がN大病院前の薬局にはなかったので、高島平の薬局まで行く。そこでも取り寄せといわれたので、結局郵送してもらうことにして戻った。へとへと。
7月某日
学校から帰宅すると連れは布団で横になっていたが、声をかけると「昨日よりはマシ」と言っていた。今日もトマトジュース以外何も食べていない様子で、体力の低下が心配。ブラジルのConradからメールで井上さんのインタビューに追加して欲しい質問などは全くないというので、プリントして井上さんの事務所へFAXする。その後連れのお姉さんから電話があり、なんと義兄さんがくも膜下出血で倒れたそうで、帝京大学病院で開頭手術をしたという。幸い軽いものだったそうだが、見舞いに来てもらってもしばらく集中治療室だから、と言っていた。それにしてもお互い看病やら介護で大変だけど、健康には気をつけましょう、と話す。何だか周辺にもいいことがない。
7月某日
行ってはいけない病院、かかってはいけない医者
朝からうす曇でムシ暑い。朝9時頃連れが起きたり動く気配で目が覚めてしまい、そのまま起きてこっちはソファでぐったり。その後ご飯を炊いて食べてちょっとうとうとする。銀行関係の手続きがあってこないだ一度行ったのだが、やっぱり戸籍謄本やら印鑑証明やらが必要というので、こないだ行った時に聞いたのに一遍に言えよと腹が立つ。その上来いというのでこっちはそっちのミスなんだから書類を送れと言い、足りない書類を取るため仕度して区役所へ行く。いつも遅れるくせにこういう時はキッチリ来るバスがちょうど行った瞬間で、しょうがなくタクシーで11時半頃区役所に着き、書類を取る。書類は封筒に入れて区役所横のポストに投函、電車で西巣鴨へ出ようと思って駅に入るとちょうど電車が来たところで慌てて駆け込むと、なんと逆方向の電車。本蓮沼で気付いて降りて、猛烈なむし暑さの中三井住友横のバス停でバスを待つ。汗がダラダラ出る。豊島病院経由池袋行きが来たので乗り込み、池袋東口へ。そこからバスで学校。
講義中携帯が鳴っていたので見ると連れからで、留守電にはため息が一つ入っているだけ。その後メールで「いたい」と入っており、すぐに生徒たちには残り時間を休講にして、出る。携帯で電話すると、猛烈な痛みなので救急車呼んでいいかというので、すぐに呼べと言う。医師会病院へ搬送してもらうというので、東口からとにかく来たバスに乗る。やはり豊島病院経由赤羽行きだったので、途中大山で降りてタクシーを拾い、高島平へ向かう。バスとタクシーを併用したせいか、遠回りなのか、道路も混んでいたせいなのかかなり時間がかかってようやく医師会病院の救急外来へ行き搬送されていないか聞くと、来てないという。念のため内科にも行くが来てないというので途方に暮れ、家や連れの携帯に電話するも出ない。ひょっとして力尽きて倒れてるのかと心配になり、バス停に走るがまたもやバスがブブゥと行った後。マシンガン持ってたらブッ放してるぞ国際興業バス。時刻表とっぱらえ。汗だくになりながら反対口まで歩いて、マツキヨで痛み止めを二つ買い、バス停に向かうとまたもやバスがしかも二台続けてブブゥと行っちゃった後。へとへとでしおしおで汗だくで心配だわ疲れるわでもう最低。しかしこんなもんで終わりではなかった、この日は。
10分ほど待ってようやく来たバスでマンションまで帰ると、連れはいない。風呂で溺れてるのかと思って覗いてもいない。またもや途方に暮れ、Yちゃんに何か連絡行ってないか尋ねたが当然行ってるわけもなく、気がついて119番に電話して、今日連れがどこに搬送されましたか、と聞くとN大板橋だという。N大病院へ電話すると、若い男性医師が容態について詳しく話してくれたので、すぐに仕度してタクシーで病院へ向かう。救急外来のベッドに連れは寝かされており、痛み止めを打ってもらったらしく、少し楽だと言っていた。若い女性の医師はこちらの言うこともよく聞いてくれ、親切にいろいろと説明してくれた。とにかく楽になったからというので、一旦連れて帰ることになり、例を言って会計を済ませ、処方された痛み止めを調剤薬局で貰い、タクシーで帰宅。何ともう夜の8時になっていた。
腹が減ってたので即席中華のチンジャオロースをピーマン刻んで作ってかっこみ、ブラジルへ原稿や写真データを送る手配をしていると、連れがまたもや猛烈に痛いと言い出したので、困り果てて何度も連れのお母さんに電話するが出ない。ようやく9時近くになって通じたので事情を話す。とにかく内科的にはどこも異常はなく、痛みだけが猛烈に存在しているので、睡眠もろくにとれず食事もここ一週間以上ろくに採っていない、だからどこか入院させてくれて、点滴で栄養補給しつつ、痛み止めを投与してくれる病院を紹介してくれないかとお願いすると、一旦切ってしばらくすると「知り合いに何とかお願いして、明日朝一番で病院に電話してもらうから、今はとにかく救急車で都立駒込病院へ運んでやってください」というので、入院の仕度をバッグ一個につめこみ、これまで処方された薬も持って救急車を呼んだ。
10時前に救急車が到着し、救急隊員が事情を聞いてきたので説明すると、駒込病院へはかかったことがなければ受け入れてもらえませんよ、と言われたのでもう一度お母さんに電話すると、「明日連絡することになってるから、とにかく運んでもらって」というので、頼み込んでそうしてもらうことにした。連れを先に救急車に載せてもらい、隊長らしき人が駒込病院へ電話して事情を説明してくれると、搬送してもいいということになり、ホッと安心して荷物を持って施錠し、下に下りる。玄関ホールでは連れと救急隊員が待機していて、2階の顔見知りのおばさんが心配そうに立っていた。例に寄って「何か困ったことあったら何でも言ってくださいね」と言ってくれたので礼を言って救急車に乗り込んだ。
救急車は10時ちょいに発車したが、もちろん赤信号などを全て通過し、20分足らずで駒込病院へ到着した。連れは救急処置室に運ばれ、その間に受付を済ませ、救急隊員に礼を言ってしばらく待たされてると、看護婦が来て「中へ入ってください」と言うので処置室に入る。処置室では若い男の研修医と思しき医師が連れを問診しており、俺もいろいろこれまでの経過を説明する。間もなくもう一人先輩と見られるやはり若い医師がやってきて、今まで説明した全く同じ話をもう一度説明させられる。するとエコーをかけてみようというのでエコーの機械を出してきて、連れの胸を開かせて、エコーをあて始めた。今現在ちょっと服が触っても痛いと言ってるのに、エコーを何度も何度も腹部にあてては、後輩の医師に説明するように
「ここはこうでしょ、ここはこうで…これがP1、これがp2だねー」
と延々30分もエコーをいじりまわしている。挙句
「これがウテルスだねー」
だと。子宮まで見てやがる。関係あんのかてめえ、医療オタクかお前は。その間も連れは乳房丸出しで痛みを堪えており、こちらは黙って見ているだけだ。さすがに不安になってきたので、「とにかく痛み止めと栄養補給のための点滴を打ってもらえませんか」とお願いすると、血液検査と念のためレントゲン撮りますから、と言われる。一応点滴は打ってもらい、連れのベッドを押す看護婦と一緒に夜の病院の2階のレントゲン室へ行く。無人の待合スペースの椅子でレントゲンを10分ちょっと待たされた後、最初の処置室のベッドに移された。この段階でも点滴だけで、例の医療オタクのような若い「皿谷」という医師はどうやら点滴終わったら帰れという態度だ。こちらはそれじゃあ困るので、とにかく朝まで何とか居させてもらいたいので、看護婦に「何とか朝まで置いてもらえませんか」とお願いすると、皿谷医師は
「じゃあ点滴を早く落としますから連れて帰ってください」
と言う。
何だそれは、とこの段階でさすがの俺も腹が立ったが、またもや堪えて「家に連れ帰ってもう一度外来に来れるような状態じゃないので、何とか…」とお願いするが「ここは救急外来だから、もし救急の患者さんが来たら困るでしょ」の一点張り。そりゃあ正論だ、確かに。しかし患者は一人だけでベッドはたくさん空いている。手足がちぎれたり内臓が飛び出すような重症患者以外は、こんな真夜中でもとっとと出てけというのか。その上朝になったら外来に出直して来いという。この激烈な痛みや、ここ一週間以上も食事も睡眠も取れないような状態が「緊急」ではないというのか。
ラチが開かないので、「明日朝一番で入院させてもらう旨連絡が入ることになってますから」と言うと「何ですかそれ」と小バカにした態度でニヤついた笑顔さえ浮かべて全く取り合わず、うんざりした顔で「とにかく異常が発見されてないから、このまま帰って下さいよ」と言う。もうここで俺はキレたので、「解ったよ、じゃあ連れて帰りゃいいんだろ」と言い、看護婦に「すぐ点滴外せ」と言った。看護婦は驚いた様子だが、「いいから早く外せよ」と言うと「いいんですか?」と言いながら処置を始めた。いいもくそもあるか。てめぇらそれでも人間か。原因が何だろうが、今現在猛烈な痛みを感じている患者を真夜中に帰れといって放り出すのが病院なのか。「痛み」という「症状そのもの」が充分治療の対象であるという考え方は、今や世界の常識だ。何のためにペインクリニックという新たな概念が生まれたんだ。QOLという言葉を知らんのか。頭の中をそういう呪詛の言葉が駆け巡る。連れは胸焼けもするといい、もらった水も吐いてしまう。「すぐ他の病院行こう」と連れを促すが、看護婦が「お薬出しますから」と言う。俺はすぐさま「そんなもんいるか」と言ったのだが連れが「薬ないと不安だから」というから、それまで待つことにした。さっきまで皿谷の横で薄ら笑いを浮かべて、俺たちを追い返す言説に頷いていた婦長らしき女が「明日外来に来られますか」というので、「こんな病院二度と来るか、バカ!」と吐き捨てる。婦長は言葉を失っていたので「他のちゃんとした病院、せめて痛み止めを打ってくれる病院に行きますよ」と皮肉たっぷりに言う。すると「じゃあタクシー呼びますから」というから「そんなもん自分で呼ぶからいいよ」と断る。
しばらく待たされて薬が出たので無言で受取り、会計に向かうと1万円を超えた。これで1万取るのか。何の治療もせずに患者放り出して、泥棒かよこの病院は。すぐに外に出て携帯でタクシーを呼ぼうとすると、婦長が「タクシー呼びましたから」などと親切風をふかして言うので、無視する。しばらくしてタクシーが来ましたというので、無言で乗り込み、病院を出た。全く何て病院、何て医者だ。
今後何があろうと、他の病院が全て満員だろうと、都立駒込病院にだけは行くものか。てめぇら全員医療に携わるのを辞めろ。頼むからこれ以上患者を診るな。じゃなきゃ死ね。
家に着くと1時過ぎ。連れには薬を飲ませて寝かせる。前に夜中に連れて行った医師会病院の時は、当直だった國分先生も看護婦さんも親切にしてくれた。痛み止めも点滴も打ってくれ、俺も朝まで連れと一緒に仮眠させてくれた。それが救急病院じゃないのか。この差は一体何なんだ。「医は仁術」とは一体何のことなんだ、駒込病院。今まで病院や医者には失望させられたことは何度もあるが、今回ほど酷い仕打ちを受けたのは初めてだ。
7月某日
結局連れは前日夜中に病院から追い返され、その後もろくに寝られなかった様子。夜中3時に一旦床に就くが、5時頃連れのお母さんからの電話で起こされる。結局最初に手術を受けたT病院に責任を取って診てもらおうということになり、タクシーで連れて行くことにした。救急外来につけてもらい、中に入って受付に「今日救急で搬送される連絡をした者ですが」と言って診察券と保険証を渡す。連れはソファに座らされて血圧と脈拍を測定され、5分ほど待たされて看護婦が車椅子を持ってきた。泌尿器科でまず検査をしますから、と事務の人に促されるが、俺は重たいボストンバッグを持ちながら車椅子の連れを押さねばならない。何で病院の人間が押さないんだ、と不愉快になるが仕方なく片手でバッグを持ち、片手で何とか車椅子を押す。大変な作業だ。事務の女はツンとすまして先導して歩いていたが、俺が重いバッグと自分のショルダを片手に持ちながら、片手で車椅子の方向を換えるのに苦労しているのを見て、ようやく俺にファイルを持つように言って交替に押してくれた。ていうか最初からそうするのが普通だろうが。全くどいつもこいつも阿呆ばかりか。
泌尿器科には連絡が行っており、すぐに執刀したN先生に呼ばれる。手術後から結局痛みは一時弱まったものの、その後ここ一ヶ月くらいはひどくなる一方で、N&M先生に「胃か十二指腸の潰瘍だろう、うちの内科は手一杯だからよそへ行け」と言われて医師会病院へ行った後、N大病院のペインクリニックや駒込に救急車で搬送した話などを手短に説明する。経過を聞いたN先生はさすがに申し訳なく思ったのか、「連絡は受けてますので、何とかベッドを開けて入院できるように手配しますから」と言う。だから最初から、自分が執刀した患者なんだからそうしてくれれば良かったんだと思う。ここ十日ほどろくに寝てないし、食事もとってないと説明してとにかくまず点滴をしてもらい、それからベッドが空くのを待つことになる。
1時間ほどしてようやく病室が決まり、病棟の看護婦が迎えに来て、病室へ行くことになった。N先生はその間に、俺に処置室ではなく診察室の方へ入るように促し、説明があった。はっきり言って他に何も悪いところがなくこの激烈な「痛み」しか症状がないとなると、自分としても申し訳ないが原因がわからないという。要するに手術の際に肋間神経を切った、それがヘンな切り方をしたのか普通に切ったのに連れが過敏なのかはともかく、とにかくそれが激しく痛んでいるということで、もう間違いないだろうに、とは思うがこちらは素人だから黙っていた。N先生にしてもそれはうすうす、いやはっきりと解ってるのだろうが、自分の執刀が原因とは言うはずもないということだろう。それはそうとして、N先生は「ベッドは何とか空けるように指示しましたが、言いにくいんですが、こういったケースは病院としてはあまりウェルカムなものではないもんでして…」と言うので、「どうも申し訳ありません」と言うと、「ですのでひょっとしたら何かそういった部分で不愉快な思いをされることがないとは限らないんですが、自分としては出来るだけそういうことのないように配慮しますから」と言う。看護婦が嫌がらせでもするかも知れないよ、ということなのだろうか?
5階のB病棟11号室の4人部屋に部屋が決まり、病棟から看護婦さんが迎えに来てくれ、部屋に入ると窓際だったので良かった。部屋では今日退院してしまうという中年の患者が明るく看護婦と話しており、連れの向かいの窓際のベッドは誰かいるらしいが空だった。一旦そこに寝かされ、荷物などを整理していると、担当の看護婦が問診に来る。症状などを書いてくれと青い紙を渡されたので、ことの経緯を細かく記入した。しばらくして麻酔科の方へ行くように手配されたというので、連れの車椅子を押して2階の麻酔科へ行く。看護婦はエレベータまでしかついて来なかった。セルフサービスかい。
麻酔科の受付をして、部屋の前で待っていると看護婦たちが来て連れを診察室へ入れて、俺は先生が来るまで外で待たされる。間もなくH先生という麻酔科の先生が来て中に呼ばれ、連れに問診。俺も横から補足説明をする。H先生が痛みの感じを細かく俺や連れに問診し、次に器具を使って触診して範囲、部位や痛みの強さなどを細かくカルテに記入していくのを見ていたが、H先生のところにはまだレントゲンも何も来てないというので、取り寄せてより詳しく診察するという。問診と触診が終わると俺は外に出て待つように言われたので、麻酔科の前の椅子で待つ。しばらくして「硬膜外麻酔をしますから、終わるまで待ってください」と言われたので、引き続き椅子で待つことになったが、とにかくほとんど寝てないし、このところクッタクタで眠気が襲ってきて、椅子の上でうとうとする。
30分か1時間か、とにかくずいぶん待たされて、ハッと気付くとちょうどN先生が様子を見に来たところで、処置室へ入っていく際に俺に「麻酔、いいみたいですよ」と言って入って行った。しばらくしてN先生が俺に目配せだけして出て行き、さらに待たされた後、看護婦が「ご主人、もうそろそろ終わりますから」と呼ばれたので中に入る。なんと、あれだけ苦しめられていた痛みが、麻酔を背中から細い針と管を通じて点滴のように注入するや、劇的に消えたのだという。連れは痛みがないことがよほど嬉しいのか、涙を流して喜んでいた。俺も本当に感動した。もちろん普通の人にとっては痛みがない状態が普通なのだが、連れは手術後、とりわけこの一ヶ月くらいは常に四六時中ひどい痛みに見舞われていたわけだから、それが消えたことは本当に嬉しい様子だった。しかしこのことで、やはり手術の際の神経の痛みであることがはっきりしたわけじゃないのだろうか。そう思うと複雑な心境ではある。血圧と脈拍が機械でがモニタされていて、その最後の5分のデータが出たらOKというので、横に座って待つ。間もなく最後の計測データ表示が終わったので(俺はこの時の機械の数字を見ていたのだが、脈拍が140前後と異常に高いのが気になった)、病室に戻ってもいいことになった。担当の看護婦が迎えに来たが、俺が車椅子を押して5階の病室まで戻ることにした。
病室に戻るともう4時を周っていて、お姉さんが待っており、連れの痛みが消えたと説明すると「良かったねぇ」とちょっと涙ぐんでいた。お姉さんとて、旦那さんが開頭手術をした直後で大変だろうに、本当にありがたい。3月の入院の時も含めてどれだけ助けられたことだろうか。
お姉さんと3人で、本当に久しぶりに普通に会話が出来るのが嬉しい。それでも連れは麻酔の副作用か、それとも痛みが消えた分これまで何も食べていなかった影響が出たのか、しきりに吐き気を訴え、胃液を何度も吐く。それでもあのひどい痛みよりは全然マシだと言っていた。6時頃まで3人で病室でいろいろ話して、連れが「今日はもう帰ってゆっくり休んで」というので、お姉さんと一緒に帰ることにした。
長い一日だった。へとへとに疲れたが、連れの痛みが消えたのが嬉しい。しかし首から麻酔液のボトルをぶらさげ、背中に点滴のように針が刺さっていて、麻酔を常に体内に入れている状態でだから、それが切れたら再びあの痛みが始まるのだろうか、と心配していた。麻酔のH先生は、「この週末ずっと麻酔を入れておきましょう」と言っていたので、ここ数日は安泰な気持ちで過ごせるとは思うが、その後どうなるのだろうか。
7月某日
昼頃売店で週刊誌とお茶を買って、連れの痛みも消えたことでウキウキと病室へ着くと、連れは半身を起こしてぐったりしている。驚いてどうしたのかと聞くと、硬膜外麻酔の副作用で、一晩中物凄い吐き気と動悸で息苦しいのとでまたもや眠れなかったし、朝ごはんも食べられなかったという。あの物凄い痛みは取れても、絶え間ない吐き気と動悸ではもっと辛いというので、麻酔を止めてもらうことにしたという。麻酔科の処置室でモニタを見た時の、「脈拍140」という異常な数値がずっと続いていたわけなのだ。水をコップに注いでやるが、ちょっと飲んだだけですぐに戻してしまう。それだけでなく、こちらと話してても吐瀉物入れが話せず、時折「うぇええ」と胃液を吐いている。これではキツかろう。連れは吐き気も凄いが、心臓が止まるんじゃないかと思うほど動悸が物凄く、怖かったという。12時過ぎにご飯(常食)が来たが、何とおかずは天ぷら。匂いを嗅ぐのも嫌だと、食べるどころではないのでそのまま俺が下げた。耳栓も昨日買ったやつは効かず、同室のババァの声や所作がうるさくてしょうがないという。イヤーウィスパーじゃないとダメかと、俺も昼飯を食いがてら病院近くの商店街に買いに行くことにした。
耳栓を買ったり飯を食ったりして病院へ戻り、病室へ行くとさっきまでお姉さんが来ていたという。俺がいない間吐き気がひどく、お姉さんも見かねて涙ぐんでは「暑い」という連れのためにセンスで扇いでくれ、頭をなでてくれていたという。連れは「今日は吐き気が止まるまで帰らないで」というので、そのまま居ることにする。しばらくするとN先生が来て、経過と今後についてなど、30分ほど3人でじっくり話をする。硬膜外麻酔というのはいわゆるブロック麻酔ではなく、脊椎の硬膜に針を刺して麻酔薬を注入するもので、連れが訴えるような吐き気や動悸といった副作用は通常あまり見られないはずだが、実際にあるからには中止せざるを得ないから、別の方法を考えようということ。また心因性のものも多少はあるはずで、あまり自分を責めたり、暗い方くらい方へ考えを向かせない方がいい、という話にもなる。
センスで時折扇いでやったり、求めに応じてアイスノンを替えてやったり、8時まで病室に居る。連れはその間もずっと、ひっきりなしにげぇげぇやっている。麻酔の注入はもうストップしたのだから、副作用だとすれば徐々に収まって、今晩は寝られるはずなのだが。
7月某日
連れは麻酔をやめた後も効果が続いているのか、痛みはないものの今度は腹部周辺が痒いという。浴衣がこすれても痒いというので、パジャマに換えさせる。それにしても麻酔の副作用か何か解らないが、軽口というか冗談というか、明らかにハイになっており話題も飛び飛びになるのが心配。お姉さんとも度々「大丈夫かな?」と顔を見合わせる。
7月某日
学校へ行く前にノートパソコンなどを持って病院へ。病室が移ることになるので、セッティングはいいというのでお姉さんに挨拶だけして学校へ行く。学校から帰った後もう一度病院へ行き、帰宅して10時前にシャワーを浴びる。何せ最近部屋のクーラーがすぐに止まり、その度にブレーカーを一度落としてから入れ直し、クーラーをつけ直すという作業が必須。汗だくになったがシャワーで爽快、その後洗濯機の中に放置してあった洗濯物にすすぎをかけて、風呂場に干し、浴室乾燥機を1時間半セットする。入れ替わりにTシャツ類を全部洗濯。
7月某日
台風が接近中とのこと。連れはそういう「天変地異」が大好きなのでワクワクしているが、台風が関東直撃といっても、いつも東京だけは何の被害もないから、今回もどうせそうなんだろう。揖斐川や長良川付近では床上浸水やら死者まで出た様子の大型台風なのだが、東京は本当に台風には強いというか、全く何も被害がないだろうと確信している。病院を7時過ぎに出ると、さすがに雨は凄い。バス停まで行くとちょうどバスが走り去ったところだったので、17号まで歩くかと思って栄町バス停まで歩いて、やはりズブ濡れになりそうだったのでバスを待つことにした。わりとすぐ次のバスが来たので乗り込み、本蓮沼で降り、高島平行きバスの時間を見ると間があったので、向かいのスーパーで買い物。卵、ベーコン、牛肉、みょうが、うどん玉などを買い、さすがに風も少し出てきたので結局タクシーを拾って帰宅。
7月某日
本蓮沼で病院経由のバスに乗り換えると、何とお姉さんが乗っていたのでびっくり。赤羽発だから、このバスに乗っているのは考えられるが同じバスとは偶然だ。病院で弁当を食べて、12時5分頃「じゃあまた夕方」と言ってお姉さんに挨拶して病室を出た。明日午前中に病室が移動だと思うので、連れの荷物を持ち運びしやすいように整理する。連れはこれまでのヘロヘロの躁状態からずいぶん戻っていて、会話も普通になってきた様子で安心。8時少し前になったので帰らないとならず、一緒に下まで喫煙室に行く。そこで一服して、8時過ぎたので帰る。連れは3月の時のように、時間外出口への通路を通る俺に手を振っていた。痛みも時折あるようだが、もちろんあの救急車騒動の時のようなことは全然ないし、食欲も少しづつ出て来ている。
7月某日
病院に連れのお母さんが来たので、お姉さんと3人で病院向かいの喫茶店で食事をする。いろいろ話し合った後、お母さんはタクシーで帰り、お姉さんは携帯に入院している義兄さんの病院から電話があったのでそちらへ向かった。残った俺はそのまま病室で連れと過ごす。リンスのいらないシャンプーというので、女子用トイレのシャワーで看護婦さんからシャワー用のリクライニング椅子を借り、シャンプーをしてやる。気持ち良さそうだった。ドライヤーを借りてブロウして、病室に戻る。その後は夕飯まで居て、7時前に病院を出た。
7月某日
夕べはことのほかクーラーの調子が悪く、家でソファに座ってるだけでベタベタと湿気があり暑い。夜になっても一向に気温も下がらず、室温は30度を指しているのに、クーラーは「ひょぉぉぉぉ〜」と弱弱しい風を数回送っては止まりの繰り返しで、その度にブレーカーを下ろして入れ直し、またクーラーをつけての繰り返し。1時過ぎに諦めて寝ようと寝室に行ったが、暑くて眠れず、また起きる。結局その繰り返しで寝たのは朝の4時半頃。その後9時半まで寝て、ふらふらの状態で猫にエサをやり、今日は持って行く物もないのでそのまま外に出る。猛烈な暑さで、台風がまた九州方面に接近しているせいか風が強い。病室に着くと12時15分ほど前で、お姉さんが来ていた。しばらく世間話をして、ご飯が来たので俺は弁当、お姉さんはパン、連れは病院の食事。まだ食欲が完全ではないし、あの地獄のような神経の痛みではないものの、内部に時折引きつるような痛みがあるという。
夕方病院を出て猫エサたくさん、小バエ取り、am/pmでご先祖様へのお線香とだんごを買って帰宅すると7時過ぎ。帰ってすぐ連れから「先生が来てなんともう退院していいようなことを言われた」という。連れはボルタレンという座薬で今の痛みは何とか抑えられているようなので(ちなみにペインクリニックや救急車騒動の時の、あの物凄い痛みはボルタレンでも効かなかった)、それさえ処方してもらっておけば帰宅してもいいような気もするのだが、実際それだって通常の状態ではないわけだし、何より食欲が完全に回復してないために体力が戻っていない。体重も37kgまで落ちたという。今は病院で上げ膳据え膳で、それでもあの食欲だから、家に戻って俺が学校だ打ち合わせだとかでいない時にちゃんと食べられるかどうかは心配。だが精神的なことを考えても家の方がいいに決まってはいる。
7月某日
結局連れは退院させることにした。今朝はやはり寝室のクーラーが切れて何度もその度にブレーカーを操作しに行ったりでロクに寝られず朦朧。クーラーが切れると暑くてとても寝ていられない。9時頃からソファでうとうとしていて、今日は連れが退院する日だから、クーラーをつけたままにして出たいと思っているのに相変わらずバカクーラーは「フォォォ」と数回風を送り出してしばらくしてはエラー表示を出して止まり、の繰り返し。11時過ぎになって奇跡的に回復、冷風が快調に吹き出してきたのでそのままつけ放しにして、11時半頃でかける。
学校で講義を終え、看護婦さんたち用にお菓子を頼まれてたので池袋三越地下へ。お菓子を買い、ウラ手からバスでT病院へ。3時15分くらいには病室へ到着。病室のベッドの上には車を出してくれたYちゃんの子のMがちょこんと座っており、退院の荷造りはほぼ終わっていた。ちょっとMをかまってから病院の会計をし、挨拶を済ませて退院。途中スーパーで、駐車場に連れを車中に残して買い物して帰宅。この日は俺の37回目の誕生日だったが、こんなに疲れた誕生日はなかったかも知れない。
7月某日
O氏からの手紙が来ており、開封してみると要するにお前は俺の金を「盗んだ」上に「騙して」金を「横領した」くせに反省の色がない、俺を敵に回したことを必ず後悔させてやる、お前からの手紙は不愉快だから今後一切よこすな、弁護士に連絡させるようにしろ、という罵倒の内容。すぐに知り合いの弁護士さんに手紙を書き、向こうが告訴なりしてきた場合は正式に依頼したいという旨FAXする。まったく何でこんなことに、と思うが自分の安易な考えやワキが甘かったのも事実。気が重いがもう話し合いでは解決しそうもないのもこれまた事実のようだ。
7月某日
腹部の痛みは整体のカイロで何とか治療できないだろうかというので、新板橋にある以前通っていた整骨院へ行ってみることにした。連れは整骨院で針はやらなかったが、背骨の整骨とレーザー治療を少ししてもらった様子で、痛みも行く前よりはいいと言っていた。その際、やはり手術の際に背骨から入れるブロック麻酔のやり方がまずいと、時々こういう後遺症が出る人がいるという話を聞いたそうだ。お昼は車で来たYちゃんと落ち合って、清竜丸のお昼の「ワンコンランチ」を食べることにする。
ランチは大皿に小盛のおかず類が5,6種並び、ご飯と卵の炒め物、味噌汁がついていて、ボリュームは充分。味も美味しかった。これで500円は安い。仕上げにメロン一切れまでついた。連れも久々にけっこうちゃんと食べた。途中Mちゃんが到着し、久々に4人で楽しくご飯。特に清竜丸には3月の入院以来ほとんど行けなかったし、昔の平和な時間が戻ったようで嬉しかった。
7月某日
夕方相撲を見る。朝青龍は関脇対決で豪快な負け方で3敗目を喫し、この時点で千代大海の優勝が決まる。直後の武蔵丸戦も勝って1敗で大関昇進後3年以上かかって初の優勝(通算は2回目)。この場所は一横綱三大関が休場、十両以上の関取が十数人休場という歴史的なひでえ場所だったが、朝青龍はどうやら関脇で11勝11勝今場所12勝ときて、場所後の大関昇進がほぼ決まったようだ。相撲の途中でそうめん用の薬味を整え、薄い卵焼きを焼いて刻んでおく。その後三束ゆでて、二人で食べる。
7月某日
お姉さんのご主人、つまり義兄がT大学病院に入院しているので、Mちゃん夫婦と車で見舞いに行く。病院は古く狭い印象。茶髪にガングロの看護婦とすれ違った時はギョッとした。病室は4人部屋で、天井が低く狭い感じ。実際の一人分のスペースはそれほど狭くはないのだが、圧迫感がある。お姉さんがいて椅子をかき集めてもらい、お見舞いを渡してしばらく皆で話す。俺は学校で4時半から会議があったので、俺は病室に30分足らずいただけで出なければならなかったが、そのタイミングで皆病室を出て、お茶を飲むというので俺だけ病院を出た。
結局学校に着くと4時50分ほどで、あちゃーと思って講師室へ行くと誰もいない。しょうがないのでしばらくタバコ吸って待つが、ハタと気付いて事務の人に聞くと、もう201教室でやってますよ、というので慌てて2階へ行く。俺はいつもの荒瀬先生と澤野先生と3人での会議を予想していたら、何と編集科で講座を持つ全講師の会議だったようで、教室は20人ほどの先生とすでに会議中。焦った。プリントを自分で取って着席し、しばらく荒瀬先生の説明を聞いた後、自己紹介とカリキュラムや生徒のことなどを一人づつ、ということになり、一番前にいた俺からになったので話す。順番に先生方が自己紹介も兼ねて自分の講座の説明や問題生徒の話など。
会議が終わって、荒瀬先生が「この後親睦も兼ねてちょっと軽く一杯」ということになったので、俺は荒瀬先生と上野先生、あと2,3人の男性講師と一緒に先に出る。高田馬場駅前の「じゅげむ」という、前にDTP研で講義を頼まれた後に行ったことのある居酒屋に入り、生ビール。久々のビール一杯目は苦かった。その後女性陣3人と新しく講師に就任したという先生、あと澤野先生が来て11人ほどで飲む。もっぱら俺と澤野先生、上野先生、あと女性陣でまとまって話し、荒瀬先生たちは男たちでDTPや業界のことなどを熱く語っていた様子。1時間ちょいでお開きになったので、駅へ向かう皆と別れて俺は都電方面へ。それにしてもあの店、客は結局俺らのグループだけだったが営業大丈夫なんだろうか。
7月某日
クーラーの修理が来る。室外機が汚れていたそうで、オーバーヒート状態になっていたという。クーラーのフィルタなどはこまめに掃除していたが室外機とは盲点だった。しっかしこの地区空気が悪すぎる。17号の排気ガスもひどいし、周辺の工場の排気も凄い。ここら辺の人、ベランダによく洗濯物干すよなあ、と思う。クーラーは快適に直ったのでホッと一息。
夜は連れが寝た後、イギリスのエリザベス女王即位50周年記念コンサートというのを見た。知らないアーティストも多かったが、良かったのはフレディ・マーキュリー亡き後のQUEENの登場。Radio GAGAをロジャー・タイラーがヴォーカルで、次はブライアン・メイによるWe will rock you、そしてゲストヴォーカリストによる伝説のチャンピオン…とまでは「ふうん」だったが、次のボヘミアン・ラプソディはミュージカル「We will rock you」出演者たちがコーラスを取り、フレディ役の歌手がリードを取ったのが見事だった。フレディばりの高音をきっちりと元曲にほぼ忠実に唄い、バックのオペラチックなコーラスもかなり忠実。この曲は現実にはライヴでの再現は無理で、フレディ存命時のライヴでもコーラスはかぶせで、フレディも高音パートをはしょったりしていたのだが、今回の再現は見事だった。
7月某日
連れは患部をホカロンなどのカイロで温めると痛みがやわらぐと言っている。あと気圧の影響もあるのか、台風や雨になると痛みがひどいという。いつにも増してここ数日痛みがひどい様子で、ソファベッドの上でぐったりしているか寝ている。顔色も真っ白だ。