デジタルG編集長日記
1999−12
祝、ガロ再復刊!(涙)
12月某日
忙しい。何だか妙に忙しいのだが、一向に金が入らないのは一体どうしてなのかさっぱりわからん。世の中には仕事をさせておいて平気で金を払わない会社が世の中にはあるということを知る。
当たり前だが、こちらが納期までに仕事を上げて、報酬が支払われるのは納品した月で締めたとしても良くてその翌月。ひどいと翌々月だ。つまりは、実際に労働している時からその対価を得るまでに4ヶ月ほど待たねばならないということである。この間は無利子無担保で金を貸しているようなもので、そういう自覚が発注者にはないことが多い。そうは言っても、むろん仕事をしている方はクライアントには弱い。おまけに日本人は金の話をするのは意地汚い、みたいな変な美徳感覚もある。かくいう僕も仕事が欲しいあまり金額の交渉をなかなか口に出せぬままスタートしてしまい、後でハラハラと落涙することしばしばではある。それにしても半年以上経過しているのにさらに遅れるという通達にはあきれ果てた。どんな仕事でも受けたからには最善を尽くそうと思っているが、ここまで来るとそんな気持ちはどっかへ消え失せるよ。
12月某日
飼い猫(そう太・白チンチラ/オス・18歳)の様子がおかしい。呼吸が出来ないようすで、口を開けてゼイゼイ言っている。前から血尿がひどく、ピンクだった鼻も白みがかって貧血もひどそうだ。うずくまっていたいのだが、呼吸が苦しいせいかヨロヨロと横になったり、フラフラと数歩動いてはまたうずくまっては荒い息をしている。食欲旺盛な猫で、食い意地は人一倍(猫一倍?)張っている猫なのに、ごはんを顔の前に置いても顔をそむけ、水や大好きな牛乳さえ口にしようとしない。連れ合いとオロオロするが、次第に息も絶え絶えで弱弱しくなっていくので、仕事が詰まっていたが病院へ連れて行くことにした。
病院へ連れていくために手提げケージに入れようとすると、どこからそんな力が出るのかと思うほどの抗い方をする。それでも何とか押し込み、タクシーで病院へ向かった。先生は症状を聞き、レントゲンを撮った結果、肺がほとんど水か膿のようなもので埋まっており、空気が入る部分がホンの少ししか見えないという。見せてもらうと確かにそうで、若い猫なら肺に溜まっている水を取って調べたりできるが、この年ならそれは無理だろう、もう寿命だからと言われる。入院させて、形だけ延命治療を受けさせ、結果寂しくケージの中でひっそりと死ぬよりは我々のそばで逝かせてやろうと、連れて帰ることにした。せめて苦しまずに召されれば、と。連れはハンドパワーだ、とそう太の体に「手当て」をしている。
12月某日
病院から帰って2日ほどで、そう太は相変わらず呼吸が苦しそうなものの、水をちょっと飲むようになった。翌日にはちょっとだけ牛乳を飲み、今日はエサをちょっとだけ食べた。呼吸も見た感じは通常に近い様子。病院へ問い合わせると、「そんな事はあり得ない」といったニュアンスで驚いていた。奇跡が起きたのだろうか。それともハンドパワーが?
ともかく、持ち直して良かった。よく考えてみればうちには4匹の猫がおり、去年の暮に野良を加えてからは、その子のあまりの可愛いさにベタベタだった。そう太は老猫で、最近はご飯を食べたばかりなのにすぐ要求したり、風呂場へ行っては意味もなく鳴いたりして、ちょっとボケが入ってきたのかな、などと話し合っていた。夜鳴きがあまりにひどいのでご飯を要求しているものと勘違いして「こら!」などと怒鳴ったりもした。猫とて心はある生き物だから、そうした家人の態度にもう自分は愛されていないと思ったのかも知らん。とにかく回復したので、これまでの態度を改め、平等に可愛いがるように努める。連れと「もしあのままそう太が死んでいたら、最後までちゃんと愛情をかけてあげなかったと後悔することになってたから、ひょっとしたら神様が時間をくれたのかねえ」などと話し合った。
12月某日
一足早く、青林堂から復刊1号(2000年1月号)のガロが届く。まだ作家さんにも送付していない見本だったのだが、嬉しさのあまり青林堂掲示板に感想を書き込み、フライングなので削除の旨連絡されてしまった(笑)。
それにしても今回の復刊は本当に感慨深い。というのも、あの97年7月、糞みたいな連中の起こしたクーデター事件によってガロは休刊に追い込まれた。思えばその直後から、俺の地獄は始まったのだ。最後は「無能の人」となってしまった山中社長が気に食わない、だから辞める、はいい。しかし連中は何の後始末もしないばかりか、青林堂が作家さんから預かっている大切な原稿を「ヤクザに会社が乗っ取られた、会社転がしの手に渡る前に我々は原稿を守るために持ち出す」などとヨタ話を捏造して盗み出し、隠匿。その後はウソ八百を並べ立て、作家書店取次マスコミにまでそのシナリオをバラ蒔いた。そしてそれをそのままタレ流したクソマスコミども。俺はいつの間にか金で転んで山中の味方をし、その後を引き受けた「ヤクザ」福井とグルになって青林堂を転がす「一味」呼ばわりだ。こんな漫画みたいなシナリオを、事件から2年半も経過してまだ信じている馬鹿が、今現在、まだいることは驚愕に値する。しかし事実いる。
当初は情報が錯綜・混乱し、デマが余りにも迅速かつ広範囲だったために、連中の言い分を信じた作家さんを責めることは出来なかった。しかしここまで来て、いまだに真実を知ろうとしない、知らないのはもはや「罪」ではないのか? 知らないことは罪になる場合だってあるのではないか? 事件直後には、連中が辞職より以前に全員が一斉に退社して原稿を持ち出し、新会社を興すことを企てていた、という証言が後に得られ証拠も揃っていた。これは明らかに犯罪なのだ。特別背任や横領、窃盗、詐欺、名誉毀損、私文書偽造、一体いくつの罪を重ねれば気が済むのか、当時は本当に呆れたものだ。どっちが会社乗っ取りだ? しかし結局福井は裁判に出る経済力と体力、そしてそうした醜聞がまたクソマスコミどもの格好のネタになることでガロが傷つくことよりも、とにかく青林堂とガロを存続させる方を選んだ。
こっちは連中の尻ぬぐいを無償で行い、事態の収拾に奔走した。失業保険の不正受給も受けたし、サラ金から金も借りた。そうまでして、何とか青林堂だけは守ろうと、当時残っていたスタッフは本当に筆舌に尽くしがたい苦労を重ねていた。結局福井はツァイトを守ることは出来なかったが、私財を投げ打って、我々と共に青林堂とガロだけは残すように尽力した。その結果、97年暮れには何とか1回目の復刊は果たせたものの、当時の俺はそのガロに協力できるような状態ではなかった。生活のために別の仕事をしていたし、事件の及ぼした…というよりクーデター組のデマのおかげですっかりダーティなイメージに誤解されてしまった自分が関わればややこしいことになるから、むしろ意識的に表だってかかわらないようにしていたこともあった。しかし残念ながら売れ行き不振のため98年の9月号で2度目の休刊。
クーデター組は事件直後から青林堂に対して悪辣な「会社潰し」的工作を繰り返している。自分たちが事件を起こしておきながら、「青林堂はもうダメだから、版権をこちらに寄越せ」と吹聴して青林堂から作家さんの版権をむしり取っていく。証人もいるし証拠だっていくらでもある。残っている数少ない単行本もそうして売ることが出来なくなっていくわけだ。連中にすれば、青林堂さえ潰れてしまえば、計画は完遂される。つまり、ガロの正当な後継者が自分たちであるということになるからだ。俺はそんな状況の中で、もう青林堂はこのまま死ぬのか、本当にガロは二度と出ないのか、と思っていた。長井さんに「明日から来ないか」と言われた84年から自分の青春を捧げてきたガロが、もう本当に消滅してしまった、と思った。
そして99年に入り、大和堂の蟹江社長が福井から青林堂を引き継いで、こうして見事に再復刊を果たした。この再復刊号を見ると、あの恥知らずの犯罪者集団への憎しみよりも、またガロが世に出る、そのことが本当に嬉しい。蟹江社長以下大和堂、そして新生青林堂のスタッフもここには書けないが、物凄い苦労と困難を経てガロを蘇生させたのだ。クーデター組にも再三礼を尽くし、協力さえ仰いで。むろんそうした対応はことごとく裏切られたわけだが。
このデジタルガロの掲示板を、事件直後から開放して本当に良かったと思う。もしデジガロ掲示板がなかったら、「真実」を伝える手段を持たぬまま、連中の主張が「事実」となって定着していたことだろう。であれば、冷静かつ客観的に双方の主張を計り、その上でクーデター組は間違っていると判断してくれた人たちは、あの「戦い」、青林堂とガロを守る戦いの同志、戦友だと思っている。
12月某日
夕方からデジタルガロ忘年会なので、昨夜遅くまで溜まっていた仕事を片付けるべく奮闘。結果、何とか懸案の仕事を済ませることが出来た。忘年会はおなじみ清竜丸に20名ほどの人数が集まった。あの事件の時からの戦友たちや、やまだ紫、パルコ木下、鶴岡法斎各作家諸氏、友人や後輩の編集者などと料理に舌鼓を打つ。2次会はカラオケへ。2部屋に分かれてしまったので、ちょっと行き来したりしつつ歌いまくる。ただ途中で帰った人が数人いて、その分も人数にカウントされていたために料金負担が多くなってしまい、幹事としては申し訳なかった。
その後深夜で電車もないため、残ったメンバーがタクシー分乗で拙宅まで来ることになった。10人ほどが居間にひしめいて、始発の出る5時頃まで鶴岡君やデジガロのメンバーのバンドのビデオを見たりして過ごす。実は清竜丸では最初のツキだしと刺身程度しか食べておらず、後はひたすら酒を飲んでいたために皆さんが帰るころに思わず台所で胃液を吐いてしまう。このところ外食続きで、外食とくりゃあ酒という生活だったのでさすがに内臓が悲鳴を上げたらしい。
でもまぁ楽しい忘年会も終了、泥のように眠る。
12月30日
うちから歩いて数分のところに焼鳥屋があって、引っ越してきたばかりの時に行ったらたいしたことはなかったのでそのまま行かずじまいだったのだが、今月の頭に久しぶりに連れと出かけてみると、経営者が変わったらしくバカうまだった。備長炭で網焼きする地鶏や牛タンは絶品で、しかも格安。すっかり足しげく通うようになっていたので、デジガロ仲間にも教えたところ5人ほどが「行きたい!」と名乗りを上げたので日程を調整した結果今日になった。
7人で二つのテーブルを囲んで地鶏を堪能。たらふくビールを飲む。実は4日前にもこの店で飲んだのだが、その時はニンニクホイル焼きを一人でほとんど全部食って、次の日大変な目に遭った。それ以来(たった3日だけど…)禁酒していたのでビールがうまいうまい。その後拙宅へなだれ込み、男4人は麻雀ということになり、女性3人はマリオパーティ(笑)。麻雀は中学時代からやっているが、最近はメンツがいないこともあってさっぱり。この日の麻雀だって1年半ぶりだった。案の定3着。4着は素人同然の“支部長”(ハンドルネームっすよ)君だから、実質最下位か。
12月31日
昨夜は全員一旦床に就いたのだが、女性2名は早朝帰ったようで、玄関のホワイトボードにメッセージがあった。男性一人(まーう名人)もメモがあり、その後帰宅したようす。残ったのは支部長とBunさんで、料理人・Bunさんがチャーハンを作ってくれることになった。僕はスープを担当。このチャーハンが絶妙! お昼すぎ、二人は帰宅。
今年も押し迫ってきた。ここ数年、連れの親が持っている福島の山小屋に親戚夫婦と出かけて年越しをしていたのだが、今年はその夫婦に子供が生まれたこともあって家で年末年始を過ごすことにした。
正月用の買い出しにスーパーまで出かける。うちは免許を持っていないので、とかくちょっとした買い物や近距離への用事には本当に車がないと不便だ。せめて二輪か原付でも取ろうと思うのだがその暇さえない。来年は何とかバイクの免許を取ろう。それより97年から続くこの借金返済貧乏生活、何とか来年は好転するといいなあ。皆さんもよいお年を。