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◆超意識的漫画家・古屋兎丸INTERVIEW◆
Usamaru Furuya Interview(2000/1/26 REC.)for PULP magazine(viz communications Inc.)

#2 抽象から具象へ<UPDATE 200/5/20>


Shiratori(以下  何か王道的な漫画少年じゃないすか。そのままだったら、間違いなくメジャーなまんが道に(笑)。

Furuya(以下  そうですよね(笑)。ただ高校生くらいになると、何か反骨心みたいなものが芽生えてきて、よりアンダーグラウンドな方へ目が行くようになってきて、そういう演劇とか映画とかを観るようになって。で高校三年生くらいになると、そういう自分の中のものを出すのに、油絵が一番しっくりくるようになっていて。それで油絵科に行ったんですよね。

  そういう意味では、何かを表現したい子ではあったわけですね、ずっと。

Usamaru Furuya   そうなんですよね。ただその表現手段がどんどん変わって行って。大学入るまでは油絵をやっていて、美大に入ってからは、一年から二年にかけては演劇、その後はずっと立体を作りながらダンスをやってたんですね。けっこう世界的に有名な勅使河原三郎(Saburo Teshigawara)さんのカラスというグループに入ってダンスをやっていて。それと平行して、これはアメリカの人でも知ってると思うんですが、山海塾(Sankai-juku)というところの蝉丸(Semimaru)さんのグループに入ってダンスをやったり。そういう身体表現の方に頭が傾いたりして。その後に福原(Tetsurou Fukuhara)さんのところに通ったりして。

 それはもう24ぐらいまで続いていて、それと平行して立体作品を作ったりしてたんですけど、ダンスの方も「何か違う」と思いはじめたんですよ。自分がやりたいのは身体表現のようなあいまいなものではなく、もうちょっと…現代の流れというか…。身体表現というのは、どこか現代から離れたところに自分を置いて表現するものだったんですね、僕がやってたものは。どこか浮世離れしたような状態に持ってって初めて踊り出す、というような…

  ああ…ねえ(笑)。

  ねえ(笑)。そうじゃなくてもっと現実と向き合った表現をしたくなって。そういう意味で言うと、いい映画を観たりいい絵を見たりしても、それが直接はつながってこないんですね、立体であったり身体表現には。「このシーンいいなあ」と思ったりしても、それが直接踊りに生きてくるわけではない。日常生活でも「この場面すごく綺麗だな」と思ったりしても、それが気持ちの上では積み重なっても、それが動きに生きてくるわけではなくて。そういうものが、自分の中でフラストレーションがたまっていくような状態ではあったんですね。

 例えば立体表現にしてもね、抽象立体を作ったんですけども、抽象立体というものは、自分の器用さみたいなものを全部切り捨てて、何ていうかな…「モノとの対話」「素材と自分」との対話なので、そこに自分の作為が入れば入るほど、「モノ」の素材感は弱まってきちゃうんですね。その「ブツとの対話」という意味においては、自分の個性をどこまで殺せるか、というのが勝負になってくる。そこで何か「自分には向いてないんじゃないか」と思って来ちゃうというのがあって(笑)。

  何か表現ということにおいては、抽象から具象というか、婉曲から直裁というか…そういう方向へシフトしていった、というような。

  そうですね。

  通常の美術なんかの例でいっても、現代美術はその限りじゃないかも知れないけど、逆じゃないですかね。普通は具象から始まって抽象へ、というのがスタンダードのような気が。

  そうですね。そういう流れから言うと逆ですね。抽象じゃ現しきれなくなったものが溜まっていった、というような。あと自分の資質に気付いたのがちょっと遅いというのもあるかも知れないですね(笑)。

  うん、遅いかも(笑)。

  抽象的なもの、あいまいなところで表現できるものがあると思ってたんですが、あいまいなものっていうのはやっぱり人に伝わらないんだな、というのがあって。自分がやってることの全てを理解してもらいたいというのがあるんですけども、ダンスをやったり立体をやったりしていると、自分の伝えたいことが半分で、残り半分は見る人によって違うというような、そういうあいまいさが逆に美術のいいところかも知れないんですが、ちょっとそれが僕は作ってる最中に、自分の考えてることをどうやったらそのとおり捕らえてくれるかを考えちゃったんですね。で、それは捕らえてくれないんですね。だからもしかして展示方法を、壁につける立体だったら、こういう方向で(観る人の)目線を追う方向で並べて行ったら誰でも同じ認識が生まれるのかな、と思ってやっても違う認識が生まれるし。

 だから漫画でも抽象的な終わり方みたいなものはあんまり好きじゃなくて。どうにでも取れるみたいな終わり方じゃなくて、一つの終わり方をキチッと決めて、「この終わり方を解って欲しい」というふうにしたいんですね。だけどそんなことは日本の商業誌においては当たり前なんですよね。こんな葛藤は最初から誰も持たずに、最初からちゃんと解りやすい物語をちゃんと作って、それをいかに面白く描いて、オチをハッとさせられるか、とかで勝負するのが当たり前なんですよ。

  そうですね。その通りだ。

  でそういう心境になったのが、ここ1年くらいなんですよ(笑)。

  あっはっは(笑)。本当に人の逆回しみたいだなあ。

  (笑)ね。だからたぶん商業誌から入ってった人は、年を取るに従って抽象的思考が高まってって、年取ったら画家になっちゃった、みたいな。抽象画描き出したりして、そういう人いますよね。昔ヒーローものの漫画描いてた人が今曼荼羅みたいな絵を描いてる、というような人とか(笑)。

  「エイトマン」の桑田次郎(Jirou Kuwata)さんとかね。だから古屋さんみたいな人が商業漫画の世界に行ったというか、いるというのは凄く貴重だし面白いと思いますよ。

  まぁだから、「Palepoli」というのはそういう美術をやっていた、ダンスをやっていたというのがなかったら生まれなかったものではあるんですが、その時間漫画描いてたらもっとうまくなったかな、というのはありますよね(笑)。

  そういう意味で行くと、商業誌では解りやすいものが当たり前だから、逆に解りにくいものは排除されるわけじゃないですか。ネームの段階とかでも。「もっと解りやすくしてくれ」とかね。だからむしろ辿りつくべくして辿りついた感じですよね。

  うん、そうですね。だから今は…まぁ「もっとパンチラ多くしてくれ」とかいうのはイヤなんですけど(笑)、理にかなったこと言われるんであれば、それは凄く嬉しくて面白くしようというのはあるんですね。だから「ようやく漫画を描き出したんだな。」というのがありますね。今までは漫画を描いていたんじゃなかったんだな、という。

  アメリカの読者にも「Palepoli」が高い評価を受けてるわけですが、アメリカの一般の人というのは、確かに日本の漫画が今ガンガン入ってきてるとはいえ、アメリカンコミックのスタイルとはかけ離れているわけじゃないですか。アメリカンコミックのスタイルはカートゥーンの延長であったり、映画の2D版みたいな認識ですよね。だから「日本の漫画」というシステムにまだまだ慣れてないと思うんですよ。まぁこの「PULP」がそういう意味では、ずいぶん日本漫画のシステムの普及には貢献しつつあるとは思うんですけどね。

  そうですよね。

  「Palepoli」は4コマという形態を取っていても、そういった影にアート的な下地があるんでね、ひょっとしたら日本漫画のバリバリのものよりも受け入れられやすいのかな、とも思うんですよ。まあでも近代アートだったら、オノ・ヨーコが板に釘を打ちつけたものにジョン・レノンが感心するみたいな(笑)、そういうものを面白がる一方でもちろん、意味のないものとか根拠のないものに怒る人もいますけどね。

  じゃあ不条理ものなんかはどうなんでしょうね。

  例えば喜国(Masahiko Kikuni)さんの「傷天」(Heartbroken Angels)でも危ういそうなんですね、「PULP」のスタッフの人に聞くと。最近は読者もだいぶ慣れてきたみたいだけど、最初は苦労したみたいですよ。僕らには非常にわかりやすい分類に入ると思うんですけども。…解りやすいということで言うと、例えばダジャレ4コマの植田まさし(Masashi Ueda)系の4コマは、日本では誰でも理解できるけど、外国ではどうかと思いますよね。この「Palepoli」はネームに頼る部分が少ないじゃないですか。

  うん、でもやっぱり解らないんじゃないかな、と思ってしまうのは、ネームには頼らなくても、日本の漫画とかドラマ…普遍的な漫画やドラマのパロディってあるじゃないですか、刑事ドラマ「太陽に吼えろ!」であったりとか、国民的漫画である「サザエさん」(Sazae-san)「ドラえもん」(Doraemon)…向こうで言うとミッキーマウスみたいなもんですが。あと後半になるとパロディばっかりで、「あしたのジョー」であったりとかつげ義春のパロディであったりとか。そういったものがどこまでわかってもらえるかは解らないですね。ただ宗教や美術ネタなんかはね。

  あとだまし絵とかもありますしね。そういったものは普遍的に理解されるものだと思いますよ。だけどこれからの古屋さんの、いわゆる商業漫画作品がどう評価されるか、というのも興味深いですけどね。

  そうですねー。どうなのかな(笑)。

  今はもう商業漫画のフィールドで違和感はない、というかそこでやっていくという。

  うん、今はもう「Palepoli」を描いてから時間も経ったし、もうああいう作品を描くことはできないですね。自分に枷を設けることによって生まれてきた表現、あと自分が漫画というフィールドに入るために理由付けをするために描かれた漫画ですから。今は漫画の世界に入って割と自由に描けるようになってきたんで、「Palepoli」の時のような枷を自分自身に作ることが難しくなってきてる、今はよりエンターティンメントな、それでいて世界を作りこんでいくようなものを描きたいな、と思ってるんですね。一本のハリウッド映画を作っていくように、キャラクタ設定を決めて、周りの舞台設定をちゃんと描き込んで決めて、そして本一冊や二冊で完結するような読み応えのあるものを描きたいな、と思ってますね。

  話が戻るようで申し訳ないんですけど、メジャー誌に行ったばかりの時には今まで描きたいものがストレートに出せていたものが出せなくなった、そういうフラストレーションが溜まって行きますよね。それがメジャー誌に連載を持ちながら、「ガロ」に発表されて衝撃を与えた「エミちゃん」だったと。

Garden/EastPress/1111yen+tax.   そうですね。

  じゃあ今はもう「エミちゃん」も必要ない、と?

  うーん、「エミちゃん」の時にはもう一つフラストレーションがあって。「Palepoli」を描き終わって、何か16ページぐらいのものを描いて欲しいといわれたときに、コマ割が出来なくって。それで凄く悩んで悩んだ挙句に描いたものが、凄くぎこちなかったんですね。でそれが雑誌に発表されて、凄く嫌な気分になったんですね。その後にフラストレーションも溜まったし、自分の能力に対するフラストレーションが溜まって。そういうものをもう一気にブチ壊そうと思って描いたものが「エミちゃん」だったんですよね。だから人に読ませようとも思ってないし、自分のためだけに描こうと決めて、乱暴でもいいからコマを割って描いてみようと思ったのが「エミちゃん」で。それをやってみて吹っ切れたものがあったんですね。「エミちゃん」を100ページくらい描いて、気がついたらコマ割が出きるようになっていて、ああこれで安心、と(笑)。

  「ガロ」誌上では賛否両論でしたもんね(笑)。僕も最初見た時は驚いたけど。でもそういう評価とかは全く気にしてなかったわけで。

  ええ。

  じゃあ「Palepoli」も「エミちゃん」も、今の古屋さんにとってはもう過去の作品で、必要のないものだと。

  もちろんあの時は必要なもので通過しなきゃいけないものだったんですけど…つまり「Palepoli」は漫画に入るために必要だったもので、「エミちゃん」はコマ割、つまりストーリー漫画を描くためというか。…ええと、僕が初めて商業誌に描いたのは「Young Sunday」の「ショートカッツ」という若い女の子ばっかり出てくる漫画で。ええと、「コギャル」って通じるのかな、そういうのが出てくる漫画で。それで、少女というモチーフが始めて生まれてきたんですね。ああそうか、と。十代の女の子を使うと、色んな話が描けることに気付いたんですね。少女の神聖、もろさに気がついたというか。実際はどうか知りませんけど。そういう意味では「ショートカッツ」も重要な作品でした。

  よくあるじゃないですか、「いやぁもう無我夢中で」とか「食うために必死で描いてた」「担当さんの言う通りにやっただけ」とか。もちろん謙遜も含めてそういうのが多い日本の商業漫画システムの中で、最初から一つ一つの作品に対して非常に意識的であるというか、自分自身で「描く意味」が明確であるというのは珍しいかも知れないですよね。

  うーん、他の人はわからないですけどね。

  こないだも某大手出版社の人と話したんですけどね、僕が「ガロ」という特殊な雑誌にいたにも関わらず認識が一致して驚いたのは、編集者も常に作家性と商業性というか、そういうものの間で葛藤する存在なんですよね。良心的な編集者であろうと思って作家と接すれば接するほど、(企業にとって)有能な編集者であろうという部分とぶつかるというか。普通の日本の漫画といった場合は最初からこっち(商業性)の方に振れてる人が多いわけじゃないですか、100万部とかそういう単位の媒体に最初から発表することが前提ですからね。100万ちゅうたらもう「不特定多数」ですよ。そういう人たちに共通の読後感とかカタルシスとか何でもいいですけど、そういうものを与えるという。でもあなたという作家、個人がそういう作品を描くその必然性、作家性みたいなものは何ですかと問われると「?」となっちゃうかも知れない。もちろんその作家が100%売ろうかな作品を描きたいんだ、そのためだったら何でもOKだぜ! という人なら問題ないんでしょうけど(笑)、特に「ガロ」系の人はね。

  昔は「週刊少年ジャンプ」に描いてるのが一番売れて、その次は「週刊ヤングなんとか」とかの青年誌、でその次が月刊誌というようなヒエラルキーみたいなものがはっきりあったんですけどね、今はそういうのが崩壊してますよね。いくらジャンプに連載されてる作品でもつまらなければ売れないというような時代が来てると思うんですよ。単行本重視というかね。そういう意味で言うと、わりと作家性というのが通りやすい雑誌が商業誌でも増えてきてるような気がするんです。隙間を縫うような雑誌とかも。僕自身も隙間を縫うように描いてると思うんですけど、メジャーとマイナーの隙間をうまく行こうとしている雑誌、例えば「Comic Cue」(イースト・プレス)であるとか「Erotics」(太田出版)であるとか。そのほかにも出ては消えたりしてますけども、必ずありますからね。

  昔からありましたよね。「コミックアゲイン」とかもそうだったし。

  そういうのが増えてますからね、その代り商業誌もだんだん売上が落ちてきてますから、だんだん平均化してきてるような印象がありますね。

  じゃあこういった状況はむしろ望むところ、というのはあるでしょう。

  そうですね。今はマイナー・メジャーの垣根がなくなってきていて、例えばSugimura Shin-ichiさんみたいな非常に作家性の強い人が最初から「Young Magazine」みたいなメジャーな雑誌から出てそこで育っていって。そういう人は、だからマイナーな方からも興味持たれるでしょうし。頑張ればどの雑誌でも描けると、そういうふうに僕自身も思ってるし、全体の状況もそうなってきつつあると思ってます。

  なるほど。
<以下次回>(次回更新は5/30予定)

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