親愛なる「PULP」読者の皆さん、はじめまして。
僕は1984年から97年まで、日本では知る人ぞ知る、知らない人は全く知らない"GARO"という、かなりマイナーな月刊マンガ雑誌の編集をしていた。今はフリーの編集の他に、DTPやInternet関連の仕事をしたり、専門学校でマンガ編集者を養成したりしている。
アメリカで1996年に“Comic underground Japan”という本がBlast Booksという出版社から出たのは知ってるかな? もし知っていたらかなりの日本漫画ファンだと思うけど、あの本の編集者であるKevin Quigleyに協力した、日本側の編集者が僕なので、読んでくれたら嬉しいなあ。
さて、日本ではマンガがもうすっかり「産業」になって久しい。超一流の出版社だってマンガなしでは詩や純文学の本も出せないくらい、マンガは出版社という営利企業にとっては重要だ。いや、決して大げさに言っているのではない。ちなみに皆さんが今手にしている、このPULPに掲載されているマンガは、小学館という日本でも有数のビッグでクールかつナイスな(言いすぎ)出版社の雑誌に掲載された、人気の作品ばかりだ。
ちなみに僕がいた"GARO"という雑誌を出していた青林堂という出版社は、この小学館をフィッシャーマンズ・ワーフだとすると、街頭のホットドッグ屋のピクルスぐらい小さな会社だ。でも、実はこの"GARO"の創刊は、1964年9月号とけっこう古い。その当時日本は、マンガは子供の読むものだという、マンガマニアにとってはある種非常に不幸な時代だった。大人が読むに耐えうる作品が少なかったということもあるのかも知れないが、ともかく"GARO"はそんな時代の中で創刊された。
その発端は当時、貸本漫画や創刊し始めた少年向け漫画誌で忍者漫画などを発表して活躍していた、白土三平という作家が、『カムイ伝』という当時としては画期的な大作の連載場所を探していた。白土のその構想は、あまりに当時の少年向けの漫画からは逸脱しており、メジャーでは受け入れられないと思っていた。そこで、貸本時代から親交のあった、青林堂の先代社長・長井勝一(1996年没)に構想を話し、一緒に創刊した…と、僕は後年長井本人から直接聞いている。長井は『カムイ伝』の構想を聞いた当時、結核で死の淵を彷徨った後に生還してしばらくたった頃だった。長井は入院している時に、ベッドの上でいい漫画を出したい、このままでは死にきれない、と思っていたという。つまりこうした白土と長井の二つの「思い」が、"GARO"を生み出したと言えるだろう。
超大作『カムイ伝』は、日本人が皆頭にピストルを載せていた…じゃなくてチョンマゲという髪型をしていた「江戸時代」(1603-1867)を舞台にしている。この時代の農民たちの支配者だったのは、ごく一部の「武士」という特権階級だ。この支配階級に対しての農民の抵抗をメインに、身分や階級差別問題などに真正面に取り組んだ、壮大なスケールのテーマを持ったマンガが『カムイ伝』なのだ。このことは、当時のマンガという概念からは、確かにかけ離れていると言ってもいい。そして、そのことが、連載当時同じように抑圧されていた学生たちの、政府や体制への抵抗運動に見事にシンクロして読まれ、インテリ層にも初めてマンガに目を向けさせた…と言われている。僕の知り合いである、当時学生運動に積極的に参加していたというあるご夫婦によると、実際に機動隊と向き合うバリケードの中で、腹には『カムイ伝』が連載されている"GARO"を巻いていたと聞いた。"GARO"に流れていたのは、最初からそうした「体制」への反骨姿勢だった…という思い入れが多かったという。言い換えれば、既成の「漫画」という概念に囚われない「自由」を、読者だけでなく、白土の呼びかけに応じて集まった若い才能たちも感じとり、共鳴し、"GARO"に集まったんだと思う。
しかし"GARO"はいつだって貧乏くじを引いてきたように言われている。それは商業誌ではごく当たり前である「売ろうかな」という姿勢よりも、作品の新しさや表現の新鮮さ、独創性を何より重視したためだ。だから一時は7万部まで上がった部数も、70年代に入ってすぐ『カムイ伝』の連載が終わる頃から徐々に落ち始め、原稿料も出せない雑誌になってしまった。だから、せっかく優秀な新人を発掘しても、その新人が新しい表現の荒野を開拓したとしても、残念ながら"GARO"では生計を立てることはできない。従って、新人が有望であればあるほど、メジャーな雑誌へと活動の場を移して行くことは必定であるし、誰にも咎められないことだろう。ということはつまり、母体である"GARO"は、常にユニークな新人の発掘をし続けなければならなかったわけで、そのことがいつしか"GARO"が"GARO"である存在意義であるとまで言われる状況になっていったのだ。
それでも"GARO"は30年も続いた。原稿料が出せない状態も、97年に一時休刊するまで続いていた。
信じられるだろうか? 原稿料タダの雑誌が、どうして産業化した日本のマンガ界で生きつづけられたのか? 何か魔法でも使っていたのか?
それは、今では描かれてないジャンルはない…というほど拡散していったマンガの「表現」を、いつも最初に開拓してきたということが大きい。またメジャー誌では編集者がお話を作ることがよくある。作家の作った話や構成に編集者が口を出す…というよりも決定権を持つことは当たり前だ。原稿料を出しているのだから、当然といえば当然ではある。このことは、僕の知り合いでメジャー畑を一環して歩いてきたある作家が「いい編集者とは、いい話を作れる人のことだ」と言い切っていることからも明らかだろう。ところが"GARO"では、原稿料タダと引き換えというわけではないが、作家にほぼ完全に自由な表現を保証していた。これは少なくとも商業誌においては稀有…というより唯一といってもいいだろう。つまり、"GARO"からデビューした作家は"GARO"の自由かつ独創性重視の編集方針に共感したからこそ、"GARO"に持ち込みをしてデビューしたのだし、であればその作家がメジャー誌の編集者=出版社主導の方針に馴染めないことは、想像に難くないだろう。むろん、そういったメジャーのやり方を新鮮と捉えて、楽しんで続けて行く剛の者もいるし、その辺りは微妙なところではある。でも、"GARO"デビュー作家に限らず、メジャーで充分活躍しているにも関わらず、敢えて原稿料の出ない"GARO"に作品を寄せてくれる作家が絶えなかったのは、"GARO"のこのような編集方針に共感してのことだ…とも言えるのではないだろうか。現実に僕は、直接複数の作家さんに、"GARO"に描く根拠として、そういった答を得ている。
この30年の"GARO"の歴史は、もちろんメジャーな雑誌で大成功を収めた作家も多数輩出しているが、それよりも、ユニークで他のどの作家にも似ていない、人々の記憶に残る作家もたくさんいた。F.Schodt氏がアメリカで昨年出した『Dreamland Japan』という日本漫画の見事な研究書にも、"GARO"のそうした作家が多数紹介されている。漫画好きの日本の国民100人に聞いたところで、99%の人が知らないと答えるであろう、"GARO"ならではのたくさんの素晴らしい作家と、その作品たち。僕はそうした珠玉のような作品を思い浮かべるとき、いとおしくて、本当に涙が出そうになるくらいだ。つまり、日本人でさえ"GARO"を知らなければほとんど触れることのないそういった作家や漫画たちを、ましてやアメリカでいくら「日本漫画が好き」と言ったところで、目にする機会は限りなく0に近いだろう。僕が“Comic underground Japan”の編集を手伝い、その収録作家ほとんどを"GARO"の作家で埋めたのは、日本漫画は超メジャーな作品や、輸出されているこれまたメジャーなアニメだけじゃないんだ、ということを解って欲しかったからなのだ。そうそう、今このPULPで"STRAIN"を連載されている池上遼一さんも、貸本時代から"GARO"を経て、メジャーへ巣立っていった作家の一人だ。ビックリした?
最初はちょと固い話になってしまったようで申し訳ない。"GARO"のスピリッツ(と同時に貧乏も…)を、師匠である長井さんから徹底的に学んだ僕が、今後日本マンガを軸にして、さまざまな"JAPAN NOW"を伝えて行きたい、と思っている。次回から、楽しんでもらえると嬉しいなあ。
Chikao Shiratori from Tokyo,Japan
1998/07
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